声優への道~私の経験

声優を目指すきっかけ

高校3年生の夏、テレビでアニメ映画「天空の城ラピュタ」が放送され、宮崎アニメも知らず特に興味があった訳ではありませんが、たまたまビデオに録画しました。
監督の名前すら知りませんでしたが、初めて観た宮崎アニメでした。
観終わった後のドキドキした感じ。
こんなハラハラドキドキの冒険活劇がアニメで表現されていることに、衝撃を受けました。

高校3年生の、進路を決めなければいけない大事な時期。
特段この道に進みたいという希望がなかった自分に、大きな道標を示された想いがありました。

進路

担任の先生からは、「声一本でやっていくのか?」と聞かれたのを覚えています。
両親には、声優の道一本ではなく、一般的な勉強を主にするように言われました。真っ向から反対、ではありませんでした。
父からは、「お前が何を成すのか」と言われ、それを見守ってくれたのだと思います。
高校卒業後、演劇部の存在を意識した大学選びは失敗(不合格)に終わり、コンピュータの専門学校に決めました。
母から心と体を鍛えるよう、新聞奨学生になるように言われました。

声優への出発

軌跡その1-初めての養成所「東京アナウンスアカデミー」

TAAアカデミー読本_表紙
TAA教材_基礎演技_表紙
TAA教材_基礎演技_目次

東京アナウンスアカデミー 1991年当時のテキスト

1989年、コンピュータの専門学校に通いながら、週1回の声優養成所に通い始めました。
東京アナウンスアカデミー(現東京アナウンス・声優アカデミー)です。
声優専門学校ではありませんでしたが、入所オーディションは左程難しくはなかったと思います。
曽我部和恭先生から、座学から教わり始めました。外郎売を初めて目にしました。

ここから早くも、私の挫折その1が始まります。
入所半年ほど経ってから、続けられなくなりました。
新聞奨学生の生活がキツかった。と言ってしまえば、それが理由かもしれません。
声優の世界がどんなものであるか、一端を覗いただけで退所してしまいました。

軌跡その2-厳しい先生「勝田話法研究所」

演技話法テキスト_奥付

勝田話法研究所 1991年当時のテキスト

1991年、コンピュータの専門学校を卒業して社会人である会社員となり、同時に再び別の声優養成所に通います。
勝田話法研究所(後の勝田声優学院、2015年3月閉院)です。声優界の大御所である勝田久先生や野沢雅子先生の下、厳しく教えられました。
レッスン開始時には、先生の補助をされている先輩が、私たち生徒の体を温めに来られました。例えば2グループに分かれて「わっしょい、わっしょい!」と掛け声を掛け合うなどの声出しがありました。
森川智之さんもおよそその立場でいらっしゃったと思いますが、私の在籍中は既にお忙しい身のためか、残念ながら直接教わる機会はありませんでした。

勝田先生から「テケレッツェン、パーー!!」という怒涛の声を聴かせられ、これは石器時代の「オオカミが出たぞーー!!」という意味だ。と迫力のある冗談を言われ、声優はこれくらいの発声ができなくてはいけないという教えだと、今も耳と肝に残っています。

野沢先生からは、様々なシチュエーションでの、「えっ」という一言の演じ分けについて習ったのを覚えています。また過去に別の生徒が、エチュードで、突然飼っているペットの名前を「チャッピー!」と叫んだことを大笑いして話していらっしゃったことが、野沢先生を思い出すと頭に出てきます。

外郎売を覚えて発表した時や、エチュードなどの即興劇での「スーダラ節」など、勝田先生からの評価は、良い時もありました。しかし、マイク前に立った時にマイクに近くなりすぎ、「近いだろうが!」とのお叱りと同時に、30センチ定規で「パシンッ!」と頭にたんこぶができるくらいに叩かれたこともありました。

恥をさらしますが、1年にも満たない頃に、続けられなくなります。
叩かれたことなどは理由ではありません。でも自分には続けられないと思ってしまい、行けなくなってしまいました。

軌跡その3-長居「アミューズメントメディア総合学院」

AMGテキスト_目次

アミューズメントメディア総合学院 2000年当時のテキスト

つまり次の、3ヶ所目の声優養成所です。
2度目の養成所を離れ4年程の間が空いた1995年、新しく設立された養成所の広告を見ます。
アミューズメントメディア総合学院東京校です。
2度も続けられず辞めてしまった養成所。しかし諦め切れずに、再々度挑戦します。
実はこの時25歳。養成所の方からも、「(今からでは)少し遅いかも」と一言言われました。
基礎科から始まり、研究科、5年目にはデビュー科へと進みました。
この5年間という長さは、長過ぎます。養成所にこんなに長く通うものではないでしょう。
しかし一生懸命訓練をしていました。

教わった先生は、基礎科では声優の鈴木れい子先生からエチュードや発声を。タイムボカンシリーズなどに携わられた音響監督の水本完先生からはマイク前での演技を教わりました。
ナレーションについて向井真理子先生。アナウンサーの服部先生。ラジオドラマでは津久井教生先生。テレビドラマ・舞台クラスも受講し、舞台の主役をいただき、積極的にレッスンに臨みました。竹内正男先生でした。(噺家としてのペンネームは「走れや仔馬」だと仰ってました。)その他にも多くの先生方に教わりました。

インターンシップ

2000年、デビュー科在籍中に養成所内のオーディションを受けて合格し、インターンとして実際の吹き替え作品に参加しました。
スペイン映画「BLINDED(ブラインデッド)」というテロリストのお話です。
収録の4日前に台本とタイムコード入りのVHSテープを渡され、必死になって何度も観返しました。台本もどこまで読み込めば良いのか、不安がつきまといました。

収録

収録はタバックスタジオ、お昼からおよそ6時間。(途中でお菓子の差し入れ休憩がありました。)音響監督は、アミューズでも教わっていた本田保則先生。出演者は15人ほど、錚々たる大先輩方です。インターンシップ生は3人いました。緊張の中、始めに皆様に自己紹介しました。温かく見守ってくださったことは、なんと言っても救いでした。
ヘッドホンは無線式、当時はまだ目新しかったそうです。

私の台詞は一言と、ガヤのみでした。しかしマイク前に立った時に、見事に膝がガクガク震えたこと。そして監督から、「それでは深い(深過ぎる)」=声がマイクに入り過ぎている。とご注意があり、マスクをしている隊員役のため、手で口前をカバーしながら喋りました。

収録後

後日、アミューズにて出演料5000円をいただきました。この2000年には既に、新人も含めて収録1本の最低出演料が5000円と、業界での取り決めが実施されていました。昔は取り決めがなく、新人はもっと安かったと聞きました。クラスで服部先生からは、声優として出演したのだから、もうあなたは声優ですよと言われたのを覚えています。

卒業

養成所に通いながら、一時期ボーカルトレーニングにも通いました。

そして声優事務所所属の為のオーディションは、1ヶ所のみ受けました。しかし不合格。
親にも話していた、30歳までに結果が出なければ諦める。という約束の年齢でした。

声優に求められるものは、どんな役でもそつなくこなす。なんていうことは基本で前提のこと。声優に成っても、この世界で長く生きていく為には、「この人でなければ頼めない仕事だ」と思ってもらえる域に達する、そういうことだろうと思います。

他の道への切り替え

挫折の想い

6~7年の歳月をかけて声優を目指しましたが、結果、事務所所属はしていません。
なんとしても絶対になってやる!という、がむしゃらな不屈の精神は、自分には足りませんでした。

残ったもの

誰しもが通らない声優への道。
結果は出ずとも、その道を通った自分には、発声の仕方やナレーションの技術など、プロレベルとは言えないでしょうが、身に付いたものはあります。
声優でなくとも、他の殆どの業界で、声は使います。人とのコミュニケーションがあります。

「外郎売」は、覚えてから30年以上経った今も、全ての台詞が出てきます。

後にマジック業界を経験し、現在ボランティアでマジックを実演する場合にも、発声の練習が役に立っていると思います。

今後の可能性

自分が養成所に通った頃とは時代が変わりました。
今後はネットでの声の出演の可能性が考えられます。
そして今ここで、声優への道の経験者として情報発信をしています。
まだまだ、自分と声優との関係は、続いていくと感じています。

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