声優を目指すきっかけ
高校3年生の夏、テレビでアニメ映画「天空の城ラピュタ」が放送され、宮崎アニメも知らず特に興味があった訳ではありませんが、たまたまビデオに録画しました。
監督の名前すら知りませんでしたが、初めて観た宮崎アニメでした。
観終わった後のドキドキした感じ。
こんなハラハラドキドキの冒険活劇がアニメで表現されていることに、衝撃を受けました。
高校3年生の、進路を決めなければいけない大事な時期。
特段この道に進みたいという希望がなかった自分に、大きな道標を示された想いがありました。
進路
担任の先生からは、「声一本でやっていくのか?」と聞かれたのを覚えています。
両親には、声優の道一本ではなく、一般的な勉強を主にするように言われました。真っ向から反対、ではありませんでした。
父からは、「お前が何を成すのか」と言われ、それを見守ってくれたのだと思います
高校卒業後、演劇部の存在を意識した大学選びは失敗(不合格)に終わり、コンピュータの専門学校に決めました。
母から心と体を鍛えるよう、新聞奨学生になるように言われました。
声優への出発
軌跡その1-初めての養成所
コンピュータの専門学校に通いながら、週1回の声優養成所に通い始めました。
声優専門学校ではありませんでしたが、入所オーディションは左程難しくはなかったと思います。
ここから早くも、私の挫折その1が始まります。
入所半年ほど経ってから、続けられなくなりました。
新聞奨学生の生活がキツかった。と言ってしまえば、それが理由かもしれません。
声優の世界がどんなものであるか、一端を覗いただけで退所してしまいました。
軌跡その2-厳しい先生
コンピュータの専門学校を卒業して社会人である会社員となり、同時に再び別の声優養成所に通います。
今度は、声優界の大御所である先生の下、厳しく教えられました。
恥をさらしますが、1年にも満たない頃に、続けられなくなります。
先生からの評価は、良い時もありました。
しかし、頭にタンコブができるくらいに叩かれたこともありました。
これそのものが理由ではないと思います。でも自分には続けられないと思ってしまい、行けなくなってしまいました。
軌跡その3-長居
つまり次の、3ヶ所目の声優養成所です。
4年程もの間が空いてから、新しく設立された養成所の広告を見ます。
二度も続けられず辞めてしまった養成所。しかし諦め切れずに、再々度挑戦します。
実はこの時25歳。養成所の方からも、「(今からでは)少し遅いかも」と一言言われました。
基礎科から始まり、研究科、5年目にはデビュー科へと進みました。
この5年間という長さは、長過ぎます。養成所にこんなに長く通うものではないでしょう。
しかし一生懸命訓練をしていました。
養成所に通いながら、一時期ボーカルトレーニングにも通いました。
養成所内のオーディションを受けて合格し、インターンとして実際の吹き替え作品に参加しました。
そして声優事務所所属の為のオーディションは、1ヶ所のみ受けました。しかし不合格。
親にも話していた、30歳までに結果が出なければ諦める。という約束の年齢でした。
声優に求められるものは、どんな役でもそつなくこなす。なんていうことは基本で前提のこと。声優に成っても、この世界で長く生きていく為には、「この人でなければ頼めない仕事だ」と思ってもらえる域に達する、そういうことだろうと思います。
他の道への切り替え
挫折の想い
6~7年の歳月をかけて声優を目指しましたが、結果、事務所所属はしていません。
なんとしても絶対になってやる!という、がむしゃらな不屈の精神は、自分には足りませんでした。
残ったもの
誰しもが通らない声優への道。
結果は出ずとも、その道を通った自分には、発声の仕方やナレーションの技術など、プロレベルとは言えないでしょうが、身に付いたものはあります。
声優でなくとも、他の殆どの業界で、声は使います。人とのコミュニケーションがあります。
「外郎売」は、覚えてから30年以上経った今も、全ての台詞が出てきます。
後にマジック業界を経験し、現在ボランティアでマジックを実演する場合にも、発声の練習が役に立っていると思います。
今後の可能性
自分が養成所に通った頃とは時代が変わりました。
今後はネットでの声の出演の可能性が考えられます。
そして今ここで、声優への道の経験者として情報発信をしています。
まだまだ、自分と声優との関係は、続いていくと感じています。