私は声優を目指していた時期、池袋のナムコ・ナンジャタウンで約4年間働いていました。
勤務していたのは1997年5月から2001年4月までです。当時、ナンジャタウンではスタッフを正式に「ナンジャリアン」、来園したお客さんを「フェスタリアン」と呼んでいました。
1997年当時の私はアミューズメントメディア総合学院(AMG)にも在籍しており、養成機関で声優の勉強をする一方、アルバイトではコスチュームを着てフェスタリアンの前で毎日のように声を出していました。
担当したのは、マカロニ広場のアトラクションやナンダーバードなどです。決められた案内を正確に伝えるだけでなく、それぞれの街の雰囲気に合わせて話す必要がありました。
この記事では、私自身が当時撮影したナンジャタウンの写真と、現在も覚えている口上を交えながら、ナンジャリアンとして働いた約4年間を振り返ります。
ナンジャリアンとして約4年間勤務
私がナンジャタウンで働き始めたのは1997年5月です。
当時はAMGで声優を目指して勉強していた時期と重なります。AMGを離れた後もナンジャタウンでは働き続け、2001年4月まで勤務しました。
ナンジャタウンでは、スタッフを「ナンジャリアン」と呼びます。そして、お客さんは「フェスタリアン」です。いずれも私たちが当時実際に使っていた正式な呼称でした。
一般的な接客と少し違っていたのは、パーク内に作られた街の世界観の中で接客することです。
担当する場所によってコスチュームも雰囲気も変わりました。
マカロニ広場での仕事

私が担当した場所の一つが「マカロニ広場」です。
ここでは緑色のコスチュームを着て、アマーレ教会などでフェスタリアンを案内しました。
マカロニ広場では、その場所の雰囲気に合わせながら、アトラクションの利用方法や注意事項などを説明します。
人の多いテーマパークですから、内容を間違えずに伝えるだけでなく、相手に聞こえるようにはっきり話す必要もありました。
アマーレ教会で話した口上

恋愛占いの「キューピット・シエルタ」では、フェスタリアンへキューピット像を貸し出し、利用方法などを説明していました。
当時の資料をそのまま転載しているわけではありませんが、約30年経った現在でも、実際に何度も話していた口上の一部を覚えています。
「こんにちは、ようこそアマーレ教会へ。……こちらではお二人の本当の愛を占って頂くため、キューピット像の貸し出しを行います。……お一人様分の免許証や学生証、社員証、お名刺、またはナンジャビザ保険証などお持ちでしたら、ご提示下さい」
「それでは旅に出て頂く前に、3点程ご注意を申し上げます。この旅の間は、こちらマカロニ広場と呼ばれる街からは出ないようにして下さい。……愛の女神アマーレのご加護がありますように。行ってらっしゃいませ」
上記は、現在の記憶から再現したものです。一字一句、当時の台本どおりであることを保証するものではありません。
ビアンカ・ヴィータでの案内

「ビアンカ・ヴィータ」でも、アトラクションの案内を担当しました。
ここでも、現在まで覚えている口上があります。
「これより舞台を開始致しますが、その前にいくつかご注意があります。舞台回転中はポールにしっかりとお掴まり下さい。……永遠の幸せをもたらすと言われています。女神からの光のブーケが回り始めました。さあ、光のブーケを授かることは出来るのでしょうか。……光のブーケが授けられた方、おめでとうございます。永遠の幸せが誓われました」
これも当時の資料を見て書き写したものではなく、勤務中に繰り返し話していた内容を現在の記憶から再現しています。
こうした仕事では、利用上の注意など必要な情報を伝えながら、その場所の雰囲気を壊さないように話していました。
ナンダーバードも担当した

マカロニ広場とは雰囲気の異なる「ナンダーバード」も担当しました。
同じナンジャタウンの中でも、担当する街区が変わればコスチュームや接客時の雰囲気も変わります。
私は約4年間の勤務の中で、こうした複数の場所でフェスタリアンと接していました。
AMGで口上を披露したときの指摘
ナンジャタウンで働いていた時期は、AMGで声優を学んでいた時期とも重なっています。
あるときAMGで、ナンジャタウンで普段話している口上を披露したことがありました。
そのとき、AMGの教務の先生から演技について指摘を受けました。
約30年前のことなので正確な言葉までは覚えていませんが、私の記憶では、「感情がなく、ただ読んでいるだけだ」という趣旨の指摘でした。
ナンジャタウンでは、何度も繰り返している案内を間違えず、フェスタリアンにきちんと伝えることを意識していました。
ところが、それをそのまま演技として披露すると、声優の勉強という観点では「ただ読んでいるように聞こえる」と指摘されたわけです。
私にとっては、接客として台詞を話すことと、演技として言葉を表現することについて考えるきっかけになった出来事でした。
もちろん、これは当時の私個人の演技に対して受けた指摘です。ナンジャリアンとして働くこと自体が演技の妨げになるという意味ではありません。
表現活動を目指す同僚もいた
ナンジャタウンで印象に残っているのは、仕事の内容だけではありません。
当時の同僚には、私のように声優を目指している人だけでなく、他の声優養成所へ通っている人、舞台俳優を目指している人、ダンサー志望、ミュージシャン志望など、表現活動に取り組んでいる人たちが実際にいました。
休憩中には、それぞれが通っている学校やレッスンについて話すこともありました。
私はAMGに通っていましたが、別の養成機関でどのようなことを教わっているのかを同僚から聞く機会もありました。
インターネットで簡単に学校の情報を比較できる現在とは違う時代です。私にとって、同じように表現活動を目指している人たちと働いたことも、ナンジャタウン時代の記憶の一つです。
声優を目指した時期と重なった4年間

私は1997年5月から2001年4月まで、約4年間ナンジャリアンとして働きました。
そのうち約3年間は、AMGで声優を学んでいた時期と重なっています。
昼や夜に養成機関で演技や発声を学び、別の時間にはナンジャタウンでコスチュームを着て、実際のフェスタリアンを前に案内する。これが当時の私の生活の一部でした。
ナンジャタウンで働けば声優になれるわけではありませんし、テーマパークでの接客を声優養成の代わりにできるとも思いません。
実際、私はその後プロの声優として活動を続けることはできませんでした。
それでも、1990年代後半のナンジャタウンでナンジャリアンとして働き、毎日のようにフェスタリアンへ口上を話していたことは、私が声優を目指していた時代の実際の経験です。
約30年経った現在も当時の口上を覚えており、自分で撮影した写真も残っています。この記事では、それらを声優を目指していた当時の記録として紹介しました。